『仮面の告白』

今回はこんな小説を紹介しましょう。あらすじ次のとおり。

主人公の青年は、友人宅に遊びに行ったおり、下手なピアノの音を聞きます。弾き手は友人の妹・園子。青年は宿命的な出会いだと考えます。二人は本の貸し借りや文通をする仲になり、あいびきして接吻するまでになります。青年は友人からの手紙で、園子と結婚するかどうかの決断を迫られます。青年は平凡な理由を並べて断ります。園子は別の男性とお見合いして結婚します。のちに面会した二人は、なぜ自分たちは結婚できなかったのかと首を傾げます。

これだけでは、どうということもない恋愛小説のように見えますが、問題は主人公の青年です。

青年は嬉々として園子に本を貸しますが、その嬉しさは「自分が月並なことをやっている」という点にある、と言い張ります。本当は素直に本の貸し借りを楽しんでいるのにそんな自分の単純さを認めたくない、とはいえ、楽しんでいる自分を否定するだけではやはり単純にすぎる、”肯定”はダメ、”否定”もダメ、となったら”あえて肯定”するしかない、自分は本来そんな月並なことを楽しむ人間ではないのだが、他人に合わせる必要があって楽しんでいるふりをしているのだ、というわけです。

青年は園子に接吻することを「義務」として自分に課します。新兵のように緊張しながら、自分でこしらえた台本どおり、細かい所作まで意識づくで事を進めます。果たして、何の快感もなかったと肩を落とします。

結婚話が出ると、青年は「在り来りな優越感」に胸をくすぐられます。愛しもせずに一人の女を誘惑して、むこうに愛がもえはじめると捨ててかえりみない男になったのだ、と有頂天になります。

青年との結婚が破談になったあと、園子は別の男性と見合いをして結婚します。青年は肩の荷が下りたと自分にむかってはしゃぎます。彼女が自分を捨てたのではなく、自分が彼女を捨てたのだ、という自負心に酔います。

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いかがでしょうか。ご存じのとおり、『仮面の告白』(三島由紀夫、1947)です。

実はこの小説、青年が男色家という設定なのですが、どうにも後付けのようで、しっくりこないところがあります。異性とうまく付き合えないのは自分が同性愛者だからだという理屈は、先回りしたがるこの作家ならでは、という気がします。

なにはともあれ、癖の強い婚活小説です。読んだことがあるという方も、再読してみると、新しい発見があるかもしれません。時間があればぜひどうぞ。